(1)古遠賀湾と縄文人のくらし

今から 13000年前に地球がやっと暖かくなり、氷河がとけて、その水で海面が高くなり 、日本列島は大陸から はなれて今日の姿になりました。

約12000年前からは 、縄目の模様などで 表面が飾られた縄文土器が使用されたので 、この 時代 を、縄文時代と 呼びます。

木の実、 魚 ・貝類 、動物などを煮て 食べるために 、土器は大変役に立ちました。

山野では、シカやイノシシや 鳥などの動物を弓矢で狩り、海辺では貝を採ったり魚を釣ったりし、 食べた 残りの殻や、 骨を捨てた 貝塚が作られました。

また ドングリなどの木の実を 粉にして、 パンや クッキーのように 焼いたものを 食べていました 。

また 石鏃など 打ち欠いた石器のほか、石斧など、磨かれた石器も用いられました。

そのため、 自然の食糧を求めて 季節的には 移動していましたが、 それ以前に比べ、同じ場所に 長く住むように なりました 。

氷河の時代が終わり、 気候が 暖かくなるとともに、 海の水面が上がりました。 これを「海進」といいます。

植生も山野には ブナやナラなどの落葉広葉樹広葉樹から、 クスやシイなどの常緑広葉樹の森に変わりました 。

それに伴って 、動物も シカやイノシシなどが増えて きました。「海進」が最も進んだのは、今から約5000~6000年前の縄文時代の前期といわれる時代です。

海の水面は現在 現在よりも 3~5mほど あがったと 考えられます。

その後、 また、 気温が少し寒くなるにつれて、現在のような 状況に 近づいていきました。

「海進」改心の 時期には、 遠賀川流域に「古 遠賀湾」 と呼ばれる 複雑に 入りこんだ 海岸線と 、浅い 湾が生まれました。

そこには、 縄文人の 食べ物となる 魚や 貝類 がたくさんすんでいました 。

その様子を 、私たちに語ってくれるのが 貝塚です 。

貝塚は 縄文人の ゴミ捨て場ですが、 それを 発掘調査することによって、 当時の自然環境や縄文人の食文化を知ることができます。

最も奥の貝塚は、 現在の遠賀川の河口から 約15km上流の、 直方市下新入にある 天神橋貝塚です。

したがって、 当時は 直方市まで 海が入りこんでおり、 中間市、鞍手町、水巻町、遠賀町、岡垣町、芦屋町に 広がる現代の水田の部分は 、当時は海だったことになります。
洞海湾と古遠賀湾は海でつながっており、 北九州市若松区は島になっていました。