(2)遠賀川式土器の発見と研究

この遠賀川式土器は、1931(昭和6)年に遠賀川下流の遠賀川郡水巻町立屋敷遺跡の川底から 、アマチュアの考古学研究所、名和洋一郎氏によって発見されました。

壺の肩のところに貝殻やヘラによる羽状文など美しい幾何学文様を描いていました。

この土器については、九州大学の中山平次郎氏が立屋敷遺跡で発見された文様のある土器に注目し、この有文の弥生土器を北部九州に多い文様のない弥生土器とは別系統と考え、有文の弥生土器が無文の弥生土器より新しいと考えました。

その後、京都大学の小林行雄氏は、広く近畿地方の土器を調べて、有文の弥生土器が西日本に広く分布していることから、無文の物より古いことを発見し、これらの有文の土器を遠賀川式土器と名付け、弥生土器の中で最古のものとなりました。

そのため、弥生文化が伝播する様子を明らかにする上で重要な指標となりました。

1940(昭和15)年に、東京考古学会の杉原荘介氏は、九州の考古学研究者の協力を得て、日本の稲作文化の起源を明らかにするために、この遺跡の組織的な発掘調査を行い、その研究成果を『遠賀川』と題する報告書として発表しました。

これは福岡県における記念すべき弥生時代遺跡の本格的な発掘研究報告書の第1号です。
その後、遠賀川流域は、考古学研究が進められる中で遺跡の年代決定の根拠となる、弥生土器の編年研究(型を比較して土器の新古を決める研究)を切り開いてできた地域でもあります。

立屋敷遺跡を調査した杉原荘介氏は、田川市の下伊田遺跡の土器を「下伊田式土器」と命名し、「立屋敷式土器」から「下伊田式土器」への変化を考えました。

また、森貞次郎氏は、飯塚市東菰田の土器を「東菰田式土器」として、遠賀川式土器の中で最古のものとし、「下伊田式土器」から「立屋敷土器」への変遷を提唱しました。

遠賀川式土器の次の土器は「城ノ越式土器」といいますが、これも遠賀郡遠賀町の城ノ越貝塚の土器が基準になっています。

このように遠賀川流域の弥生時代遺跡は、弥生文化を研究する上で重要な役割を果たしてきたと言えます。

この時代の呼び名は現在、弥生土器が最初に発見された東京都本郷弥生町の地名から「弥生時代」となっていますが、遠賀川式土器が弥生文化伝播の指標になったと言う研究史を重視すれば、まさに、「弥生時代」のかわりに「遠賀川時代」の呼び方を提唱して良いかもしれません。

それほど、日本の古代史を研究する上で重要な役割を果たした地域なのです。


コラム
※名和洋一郎⋯1907(明治40)年~1967(昭和42)年享年60歳 福岡県若松市出身。小倉工業学校を経て、八幡製鉄所、八屋土木事務所、直方土木事務所に勤務する傍ら、遠賀川流域の考古学研究を行い、九州考古学会会員となり、北部九州の考古学研究に活躍されました。1931(昭和6)年遠賀郡水巻町大字伊佐座及び立屋敷から弥生土器を発見し、「遠賀川式土器の発見者」として学界に知られています。遠賀川流域の遺跡をくまなく踏査し、遺跡・遺物について克明に書き込んだ「名和さんの手帖」は、その資料的価値が高く名和洋一郎の名を不滅のものにしています。