(8)遠賀川上流域の遺跡



鎌田原遺跡は嘉穂町馬見の馬見山北麓に延びた丘陵上にある、中期前半から中期末の墳丘墓(土を盛り上げた墓)です。

墳丘には周溝が巡り、長さ31メートル、幅24メートルの隅丸長方形で、高さは1~2メートルの低い墳丘と推定されます。

木槨木棺墓1基、木棺基7基、土壙墓1基、甕棺墓11基(大形棺10基、小形棺1基)が発見されました。

木槨木棺墓は木棺をさらに木の枠組みでおおった大形の墓で、朝鮮半島の墓とも関係があるといわれています。

大形の木棺墓と木槨木棺墓は墓の中央付近に築かれ、小形の木棺墓と甕棺墓は周辺部に造られています。

木棺墓と甕棺墓は中期前半から造られますが、木棺墓は中期中頃で終了し、甕棺墓は中期末まで継続します。

木槨木棺墓(中期前半)から中細銅戈1本、2号木棺墓(中期前半~中頃)から細系銅剣の切先1本、3号木棺墓(中期中頃)からヒスイ製獣系勾玉1個、ヒスイ製小形勾玉6個、碧玉製管玉178個、7号木棺墓(中期前半)から磨製石鏃7点、磨製剣切先1本、壺形土器1個、8号木棺墓(中期前半~中頃)から磨製石剣切先1本、8号甕棺墓(中期前半)から中細形銅戈1本、9号甕棺墓(中期前半)から細形銅戈1本が発見されました。

墓に葬られた中心的人物が大陸的色彩の強い木槨木棺墓や在地性の強い木棺墓を用いていること、周辺の人物が新しい墓制である甕棺墓を採用していること、さらに、女性と推定される3号木棺墓の被葬者が縄文的な獣形勾玉を副葬していることなどに、この地域における初期の有力者の特色がうかがえます。

スダレ遺跡は穂波町椿にあり、遠賀川西岸の龍王山から東に延びた丘陵上にある弥生時代前期から中期の集落と墳墓群です。

遺構は台地の頂部に東西に分布しています。

弥生時代前期に住居・貯蔵穴が造られ、中期初頭から中期中頃にかけて墓地が営まれました。

墳墓は土壙墓17基、木棺墓32基、土壙墓か木棺墓か不明なもの6基、甕棺15基、計70基が発見されました。

土壙墓・木棺墓が主体を占め、甕棺墓が極めて少ないことが特徴です。

甕棺は小形棺で日常容器を転用したものが多く、埋葬専用の大形甕の使用は中期中頃以後のことです。

木棺墓のなかにはきわめて大きいものが2基あり、一つは鎌田原遺跡と同様な木槨木棺墓の可能性があります。

通常の規模の木棺の中にもその可能性のあるものがあります。供献土器を打ち欠き、破砕する葬送習俗が見られますが、この中には類例のない特殊な子持壺があります。

1号甕棺からは、右腕にゴホウラ製貝輪4個を着装した熟年初期の男性人骨が発見されました。3号甕棺からは熟年初期の男性人骨が検出され、第2胸椎に磨製石剣が刺さっていました。

磨製石剣が実用品であり、戦闘による殺傷に使用されたことを示している貴重な資料です。

こうした資料から当時は有力者が出現するとともに、周辺の村との間に、しばしば、戦いがくり返されていたことがうかがえます。

立岩遺跡は飯塚市立岩・川島にあり、嘉麻川と穂波川の合流点から東方に約500メートルの位置にある丘陵上と周辺の低地に立地します。

その範囲は南北約1キロメートル、東西約600メートルに及ぶ、弥生時代前期後半から後期の遠賀川流域で最大規模の遺跡です。

昭和8(1933)年以降の調査によって、弥生時代中期の甕棺墓地や石庖丁製作跡などが確認され、また、1963・65(昭和38・40)年の調査により弥生時代中期後半の有力者の墓などが発見されました。

前期の頃には貝殻で文様を描いた遠賀川式土器と、高槻遺跡でつくられた大形の石斧があります。

遠賀川下流域や響灘沿岸地域との交流が盛んであったことがうかがわれます。

しかし、前期末に始まる石庖丁の生産活動は、中期になると飯塚市北西部にある笠置山周辺に石庖丁の製作に適した石材の原産地が確保され、大量生産への生産体制が確立しました。

その結果、多くの石庖丁が峠越えで嘉穂盆地から福岡平野・甘木朝倉地方を主体に北部九州一帯へ交易品としてもたらされました。

この交易活動により立岩には多くの富と力が蓄積されたと考えられます。

一方、福岡平野からは、遠賀川流域に以前には見られなかった甕棺を用いた墓、中国前漢の銅鏡、青銅器、鉄器がもたらされ、また、筑紫平野からは南西諸島を原産地とするゴホウラ、イモガイを用いた貝輪がもたらされるなど峠越えの交易路が開かれました。

その結果として、立岩堀田甕棺遺跡の豊富な副葬品に示される、王のような有力者が現れたと推定されています。

丘陵上、丘陵鞍部や丘陵斜面に甕棺墓、竪穴住居、貯蔵穴群が分布し、谷間の低地に水田があったと推定されます。イネのほか、アワ、モモ、クリなど植物も栽培されていたようです。

焼ノ正遺跡から銅戈の鋳型、下方遺跡から銅剣の鋳型がそれぞれ発見され、青銅器も製作されました。

立岩小学校裏遺跡では鉄を加工した跡も発見されています。

墓地は堀田、夫婦岩、龍王寺など12ヶ所で発見されています。中期半ばから成人用の大形甕棺が使用され、中期後半に絶頂期を迎えます。

北部九州の他の地域に少ない石蓋を用いた甕棺が多いことが特徴です。

堀田遺跡の中期後半の10号甕棺からは前漢鏡6面、中細型銅矛1本などが発見され、遠賀川上流域の最も有力な人物の墓だと考えられています。

さらに、前漢鏡や銅矛などから福岡平野にあったとされる「奴国」との強い文化的・経済的関係が認められることから、「奴国」の勢力が遠賀川以東の地域へ進出にあたっての前進基地のような役割も果たしていたのではないかとも考えられます。

このような副葬品の豊富さから、中国の歴史書『魏志』東夷伝の倭人の条に、邪馬台国にいたる行程に出てくる「不弥国」という国を、立岩遺跡のある飯塚・嘉穂地方に推定する考え方もあります。

 

※中山平次郎⋯1871(明治4)年~1956(昭和31)年享年86歳 旧制第一高等学校をへて、東京大学医学科を卒業し、1906(明治39)年福岡医科大学(九州大学医学部)教授となりました。1914(大正3)年から考古学に関する論文を発表し始め、特に弥生時代の研究では、多くの実証的な業績を残し、九州の考古学研究の基礎をつくりました。遠賀川流域の考古学研究では、大正初期に高取焼諸窯の調査研究、昭和初期に遠賀川流域の弥生土器の研究を行いました。さらに、1933(昭和8)年に発見された飯塚市立岩運動場遺跡の甕棺と同所焼ノ正の石庖丁製造所跡の調査研究を『福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第9輯や雑誌『考古学』に発表し、立岩遺跡が広く学会に知られる端緒を開きました。同氏の立岩遺跡研究に果たした功績はきわめて大きいものがあります。