3.縄文時代の遠賀川

(1)古遠賀湾と縄文人の暮らし

今から 13000年前に地球がやっと暖かくなり、氷河がとけて、その水で海面が高くなり 、日本列島は大陸から はなれて今日の姿になりました。

 

約12000年前からは 、縄目の模様などで 表面が飾られた縄文土器が使用されたので 、この 時代 を、縄文時代と 呼びます。

木の実、 魚 ・貝類 、動物などを煮て 食べるために 、土器は大変役に立ちました。

山野では、シカやイノシシや 鳥などの動物を弓矢で狩り、海辺では貝を採ったり魚を釣ったりし、 食べた 残りの殻や、 骨を捨てた 貝塚が作られました。

また ドングリなどの木の実を 粉にして、 パンや クッキーのように 焼いたものを 食べていました 。

また 石鏃など 打ち欠いた石器のほか、石斧など、磨かれた石器も用いられました。

そのため、 自然の食糧を求めて 季節的には 移動していましたが、 それ以前に比べ、同じ場所に 長く住むように なりました 。

氷河の時代が終わり、 気候が 暖かくなるとともに、 海の水面が上がりました。 これを「海進」といいます。

植生も山野には ブナやナラなどの落葉広葉樹広葉樹から、 クスやシイなどの常緑広葉樹の森に変わりました 。

それに伴って 、動物も シカやイノシシなどが増えて きました。「海進」が最も進んだのは、今から約5000~6000年前の縄文時代の前期といわれる時代です。

海の水面は現在 現在よりも 3~5mほど あがったと 考えられます。

その後、 また、 気温が少し寒くなるにつれて、現在のような 状況に 近づいていきました。

「海進」改心の 時期には、 遠賀川流域に「古 遠賀湾」 と呼ばれる 複雑に 入りこんだ 海岸線と 、浅い 湾が生まれました。

そこには、 縄文人の 食べ物となる 魚や 貝類 がたくさんすんでいました 。

その様子を 、私たちに語ってくれるのが 貝塚です 。

貝塚は 縄文人の ゴミ捨て場ですが、 それを 発掘調査することによって、 当時の自然環境や縄文人の食文化を知ることができます。

最も奥の貝塚は、 現在の遠賀川の河口から 約15km上流の、 直方市下新入にある 天神橋貝塚です。

したがって、 当時は 直方市まで 海が入りこんでおり、 中間市、鞍手町、水巻町、遠賀町、岡垣町、芦屋町に 広がる現代の水田の部分は 、当時は海だったことになります。
洞海湾と古遠賀湾は海でつながっており、 北九州市若松区は島になっていました。


(2)遠賀川下流域の貝塚

天神橋貝塚は犬鳴川が遠賀川に合流するところにあり、シジミ・カキ・アカガイに混じって、縄文土器や磨製石斧・貝輪・垂飾・ヘアピン・黒曜石・植物種子が発見されました。

光田貝塚は直方市植木にあり、シジミを主として、カキ・ハマグリ・アカガイのほか、イノシシの顎の骨と牙などが発見されています。

楠橋貝塚は北九州市八幡西区にあり、当時、古遠賀湾の東側にあたります。

この貝塚については、黒田藩の儒学者、貝原益軒が『筑前国続風土記』に「楠橋の西南に貝殻塚があり、約100m四方の低い岡で、全て貝殻である」と記しており、江戸時代から有名な場所だったようです。

ヤマトシジミとともに縄文土器も発見されています。

寿命貝塚は 楠橋貝塚の西方360mの地点にあり、石で囲った炉跡を中心に7本の柱がある円形の住居跡が発見されています。

約4000年前の縄文土器とサルボウ・ハマグリ・マガキ・マシジミが発見されています。
新延貝塚は鞍手町新延にあり、当時、古遠賀湾の西側の最も奥にあたります。

約7000年から約3000年前の長い期間にわたってできた貝塚で、ヤマトシジミが最も多く、マガキがそれにつぎます。

シカ・イノシシの骨が多く、クロダイ・スズキなど湾内にすむ魚も多く、そういった魚をとるための骨性の小型ヤス、釣針、石銛などが発見されています。

木月貝塚は鞍手町木月字貝殻にあり、新延貝塚より北へ2kmほどのところです。

『筑前国続風土記』に 「下木月村から分かれた村に、蛤殻の畑があり、地底を掘れば蛤殻多く出るので、その名前とした」記されています。

土器とともに、ヤマトシジミを主体にマガキ・ハマグリなどがあります。貝層からは男性人骨が発見されています。

こうした古遠賀湾の奥にある貝塚のある場所は、貝の種類から約5000年前には海水に真水が混ざり合うところであったことがわかります。

一方、山鹿貝塚は芦屋町大字山鹿にあり、当時、古遠賀湾の河口と響灘の両方に面した砂丘上にあります。約6000年前から約3000年前の土器が発見されています。

約6000年前にはハマグリとイソシジミが多く、約5000年前にはマガキとオキシジミが増加し、約4000年前にはマガキが主体をなしています。

このことから、貝塚の南側の、古遠賀湾側の小さな湾が少しずつ陸地になっていく様子が分かります。

石鏃、石銛、骨銛、釣針、石錘、叩き石、摩石などの石器も多く発見されています。

とくに 男性8体、女性7体、乳幼児3体、合計18体、乳児から熟年(40~60歳)までの共同墓地が発見されました。

2号成人女性はサメ刃耳飾り2点、 蛇紋岩製鰹節型大珠1点、 鹿角製叉状垂飾品1点、貝輪19点など珍しい装身具を身につけていました。

また、この女性の傍には簪2点、貝輪26点をつけた成人女性がともに強い屈葬(足を強く曲げた姿)で埋められ、両者の間には乳児が伸展葬(足を伸ばした姿)で置かれていました。

夏井ヶ浜貝塚は山鹿貝塚の約500m東北の位置にあり、縄文時代の終わりの頃の貝塚ですか、ここからは珍しいアワビ貝製の貝庖丁(イネの穂摘み具)が発見されています。

黒崎貝塚は北九州市八幡西区の黒崎駅付近にあり、古洞海湾に面した貝塚です。ここからは約4000年前の縄文土器とともにマガキ・イボウミニナが多く発見されています。

柳原貝塚は同区本城東にあり、永犬丸貝塚は同区の奥にあります。

(3)朝鮮半島との交流


今から約5000年前から遠賀川流域の人々は、遠く朝鮮半島の人々と交流をしていました。

曽畑式土器という縄文土器の仲間は、北九州を中心に分布しています。

一般的に見られる縄文ではなく、櫛で線を描いたような櫛目紋と言う得意な文様をつけ、粘土に滑石を混ぜ表面に光沢があるのが特徴です。

遠賀川下流の芦屋町山鹿貝塚、鞍手町新延貝塚、飯塚市鯰田遠賀川河床や英彦山川上流の添田町ズイベガ原遺跡などで発見されています。

この土器は、朝鮮半島の櫛目文土器を使っていた人々が海を渡って来たり、ものの交換などの交流活動により生まれた土器と考えられます。

また、九州地域の漁労文化も韓国の漁労文化と深い関係を持っています。

韓国の東南海岸部のイセキから結合式釣針が発見されて交流の様子が明らかになりました。

釣針の軸が鹿の角で、針が猪の牙で作られているのが特徴です。

のような釣り針は日本では西北九州型の結合式釣り針と言われていますが、西北九州に集中して分布しています。

最も古いものは、佐賀県唐津市菜畑遺跡から曽畑式土器と共に発見されており、遠賀川流域では芦屋町山鹿貝塚、鞍手町新延貝塚から出土しています。

この釣り針のは両地域の交流を物語ると考えられます。

さらに、黒曜石を用い鋸歯のような刃をもつ石鋸は縄文時代後期に出現しますが、芦屋町山鹿貝塚で発見されています。

西井北九州型の結合式釣り針の広がりとも一致しており、この石鋸も海峡を挟んで朝鮮半島と北九州の両岸に認められます。


(4)川底から発見される遺跡


面白いことに、中間市の垣生遺跡、直方市の天神橋遺跡、飯塚市の目尾遺跡・鯰田遺跡・川島殿ヶ浦遺跡では遠賀川の川底から土器や石器が発見され、人々が生活をした跡だと考えられています。

どうして、川底から遺跡が発見されるのでしょうか。

鯰田遺跡から発見された約6000年前の曽畑式土器は朝鮮半島の櫛目文土器と関係が深く、対馬海峡を挟んで朝鮮半島南部と遠賀川流域との交流があったことを物語っています。

川島殿ヶ浦遺跡からは約4000年前に瀬戸内海方面の土器の影響を受けた土器が見られ、九州の縄文文化と瀬戸内海地方の縄文文化が交流する様子が分かります。

こうした川底の遺跡は水面から約6~7m地点から土器や石器が発見されています。

これらは摩れたり角が取れたりしていないので、上流から流れてきたものではなく、本来、川の近くの自然堤防上にあった遺跡が、遠賀川の上流から運ばれてきた土砂の堆積により川底深く埋もれたものと考えられます。

縄文時代の生活面は現在の水田面から 約6~7m低かったものと推定されます。遠賀川は深い谷の底を流れていたことになり、平野も現在より狭かったと思われます。

(5)遠賀川上流の台地上にある集落遺跡


 遠賀川上流に広がる台地上には、土掘り具あるいは鍬として使用したと推定される、打製石斧が大量に発見された大きな集落跡があります。


 北古賀遺跡は穂波川上流の嘉穂郡筑穂町にあり、約4000年から3000年前の縄文後・晩期の土器とともに、多くの磨製石斧・局部磨製石斧・打製石斧・石錘などが発見されています。

石錘は遠賀川で魚を取るために使用した網のおもりに用いたものです。

アミダ遺跡は遠賀川(嘉麻川)上流の嘉穂郡嘉穂町にあり、約4000年から3000年前の縄文時代後・晩期の土器とともに、石鏃・石匙・磨製石斧・打製石斧など大量の石器が発見されています。

竪穴住居跡20軒、土坑49基、埋甕11基など遠賀川流域では珍しい縄文時代の村の跡が発見されました。

さらに、英彦山川上流にあるズイベガ原遺跡は田川郡添田町大字津野に位置します。

ここは周防灘に注ぐ今川の水源ですが、英彦山の山頂近くに立地し標高が550m以上もあります。

約7000円から6000年前の縄文時代草・前期の土器と石鋸や石匙などが発見されています。 ここからも朝鮮半島との関係が深い曽畑式土器が発見されています。



(6)珍しい孔列のある土器


 最近、遠賀川の源流に近い嘉穂町の山間にある才田遺跡で九州の縄文時代晩期の土器とともに、土器の口縁のところに孔を連続してあけた珍しい土器が発見されました。
この土器は、朝鮮半島で約2500年前に使われていた孔列文土器の制作技術の影響を受けて現れた土器と考えられます。

同じ土器は遠賀川流域では飯塚市鯰田遺跡、小竹町内の遠賀川、 直方市中泉遺跡など川底から発見されています。

ところで、日本における稲作の開始は、口のところに刻目の突帯を持つ土器(山ノ寺式・夜臼式土器)の時期で、 縄文時代晩期末あるいは弥生時代早期とされていますが、これらの孔列のある土器の時期はさらに古く、縄文時代晩期中頃だと考えられます。

北九州市長行遺跡では、孔列のある土器とともにモミ痕のある黒川式土器や朝鮮半島中部の石庖丁と類似したものが発見されています。

才田遺跡でもモミ痕のある黒川式土器や壺形土器や石斧など特異な石器が発見されています。

このことから縄文時代晩期末あるいは弥生時代早期に先行して、朝鮮半島の農耕文化が縄文時代晩期中頃に遠賀川流域に伝来した可能性があります。

しかし、それは残念ながら定着しなかったものと考えられます。